明治時代、日本が近代国家として成長していく過程で、多くの偉人たちが新しい国家の基盤を築き上げました。その中でも法制分野で大きな貢献を果たしたのが、箕作麟祥(みつくり りんしょう、1846年 – 1897年)です。今回は、近代日本法の父とも呼ばれる彼の生涯と功績についてご紹介します。
幕末の学問への目覚め
箕作麟祥は1846年、江戸時代末期に生まれました。彼の家系は蘭学者で知られ、学問への関心が深い環境で育ちました。特に叔父の箕作阮甫(がんぽ)は西洋医学や蘭学の大家であり、麟祥の学問的基盤に大きな影響を与えましたと言われています。
麟祥自身も幼い頃から学問に秀で、特に法律や政治の分野に関心を持つようになります。1860年代には、幕府の留学生としてフランスに派遣され、ここでヨーロッパの法律や近代政治の理論を学びました。
近代法の導入と法学教育のパイオニア
帰国後、箕作麟祥は政府の法整備に携わるようになります。明治政府が欧米の制度を取り入れ、近代国家を構築する中で、彼のフランス留学での経験が非常に役立ちました。彼の代表的な功績には、以下のようなものがあります。
1. 日本初の法典編纂
明治政府は、日本の伝統的な法体系から脱却し、欧米型の近代法を取り入れることを目指しました。麟祥は特にフランス法を参考にしつつ、新たな法典の基礎を築く作業を主導しました。彼は明治憲法の起草にも関与し、日本の法体系の近代化に多大な貢献をしました。
2. 法学教育の創設
箕作麟祥は、法律学の普及と教育にも尽力しました。彼は現在の東京大学法学部の前身である法学部の設立に深く関わり、多くの後進を育成しました。彼の教え子たちは後に日本の法律界で活躍し、彼の理念を受け継ぎました。
国際的視野を持った法学者
箕作麟祥は、法律を単なる統治の手段としてではなく、国民一人ひとりの権利を守るための基盤と考えました。その視野は国際的であり、日本が世界と対等に渡り合うためには、法治国家としての基盤が不可欠であると強く信じていました。
箕作麟祥が関与したとされる翻訳や創案した用語には、今日でも法律分野で使われているものが多く含まれます。例えば、「動産」、「不動産」、「占有」、「契約書」といった用語は、箕作が『仏蘭西法律書・訴訟法』を訳する時に作り出した用語だと言われています。また、「権利」や「義務」といった言葉は、箕作が古典に基づきつつ新しい意味を付与したもので、現在でも法律用語として広く使われています。このように彼が生み出した言葉は、法律の専門用語としてだけでなく、日本語そのものの中で生き続け、現代の私たちに深い影響を与えています。
麟祥は、幕末や明治初期に先行して刊行されていた和書や漢訳洋書の類から訳語を採用するという方式をあまり取らず、訳語を決める際には主に自分で語を作るか、あるいは、日本や中国の古典から語を借用して、法律用語へ当てはめる方針をとっていたと指摘されています。
いずれも現代社会では必要不可欠な用語で、これらの用語が翻訳によりあみ出されたものだとは思わないのでしょうか。箕作麟祥の翻訳作業は単なる言葉の置き換えに留まらず、西洋法の哲学や概念そのものを日本に根付かせる役割を果たしました。法の内容だけでなく、法律用語の翻訳を通じて、日本の近代法体系の根幹を形作ったといっても過言ではありません。
おわりに
弁護士として箕作麟祥の功績を振り返ると、その影響の大きさに改めて驚かされます。彼が翻訳した法律用語や法体系は、単に外国の概念を持ち込むだけでなく、日本の社会や文化に根差した形で再構築されました。その結果、私たちの法的思考や実務の土台となる基準が形成され、現代の法律実務に至るまで脈々と受け継がれています。
箕作麟祥が築いた法律用語や法理念は、弁護士が日々の業務で依拠する「言葉」と「枠組み」として生き続けています。彼が生み出した言葉には、法律が単なる支配の道具ではなく、人々の権利を守り、社会を公平に保つためのものであるという意志が込められているように感じます。
箕作麟祥の業績を知ることで、法の役割やその根本的な意義について改めて考えさせられます。そして、箕作のように、時代の変化に応じて法の進化を支える役割を果たすことが、現代の法曹界における私たち弁護士の使命であると感じます。私も業務において英米法の概念を使うことが多くありますが、法律用語の翻訳がある程度確立した現代でもニュアンスが異なったり、直訳しても上手く伝わらず苦労することも多くあります。箕作麟祥が対訳すらない中で積極果敢に分かりやすい訳語を作り出し、またそれが現代まで生きて残っているということに、多大なる敬意を表します。